2025年 1月28日(火)、四谷三丁目「Art Space呼応co-oh」で行われた伊藤壮太郎さんが主演の舞踊公演『ばうんだり』。立ち会いの記録「見たこと、感じたこと、考えたこと」。
この投稿は公演中に私の頭の中で浮かんだこと、振り返りからの再確認、公演前の状況なども含めた経過を書き殴ったもの。一気に書き上げる時間がないため、何度かに分けて追記していくこととなる。いままで中途半端で終わったままの投稿も多いが、今回は最後まで書き上げたい。
文章は冗長気味で、わかりにくい表現も多い。しかし、「書くこと(伝えること)に意義あり!」のスタンス。そこには異議は認めないが、文章の批判は大歓迎。
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『ばうんだり』は「境界点」をテーマにしており、身体と意識が交錯する実験的な舞踊公演。公演前に紹介投稿していたので貼っておく。
『ばうんだり(MONOGATARU project)』 1月27・28日開催 四谷三丁目「Art Space呼応co-oh」にて
https://heart-to-art.net/improart/blogtitle2025-008-boundary/
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公演前に感じていたこと
まず、あらためてイメージ画像を。
「このイメージ画は何を意味しているのだろう?」。
最初に画像を見た時に感じたことを簡単に記しておく。
中心に向かう意思の変化と考えれば、「希望から闇、そして希望へとつながる出口」のように見える。直感的には「歪んだ太陽」のようにも感じられた。
公演自体は『境界点』という概念を意識している内容。伊藤さん自身から事前にアナウンスされていた。境界とは境目のこと。説明する必要もないが、異なる2つのものが存在しているからこそ成立する概念。例えば「希望と絶望」「正と負」「理想と現実」など、何らかの異質な感情を対比させつつ突き詰めていく内容になるのだろうと事前に想像していた。
一般的には境界点という言葉よりも境界線という言葉が使われることが多いのではないか。しかし、この公演は『境界点』。あえて「点」を使ったのは、伊藤さん自身が “ 現在の自分の存在 ” を明確に伝えたいという意思表示だと受け止めていた。
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そして本番。お邪魔した28日公演は深谷正子さんと駅そばで待ち合わせて会場へ。「Art Space呼応co-oh」は駅から近いのだが、入口は表通りではなくビルの裏手側にある。少しわかりにくい。この日も表通りで看板を見上げながら入口を探している若者が一人。声をかけて一緒に裏側にまわる。
開場時間から15分くらい過ぎたタイミングだったが、すでに会場は大混雑。開演前には満席。立ち見の方もいらっしゃるほどの盛況。男性客も多い。伊藤さんがいかに幅広く注目されているかがわかる。
公演後の感想を一言でまとめると、『伊藤さんは表現の美学を追い求めているのだろうな』といったところ。美学というと大上段に構えた印象だが、公演翌日に振り返って頭に浮かんだ言葉がコレ。
美学とは、簡単に言ってしまえば「感性」を多角的に掘り下げて考察していく行為。
伊藤さんは「自身の置かれている状態と社会状況」「過去の記憶と未来へ憧憬」「伝えること音伝わること」「多様な表現スタイルの見極め」などと向き合い、掘り下げ、考察し、公演で伝えようとしてしているのだろう。
伊藤さん自身の身体的な美しさはもちろんだが、観客は伊藤さんの美学の追求する表現に何らかの物語性を感じ、共感し、リピーターとなっていっているのかもしれない。
では、今回はここまで。いつものように公演の流れを追いつつの感想はあらためて。(2025/01/29)
公演の流れを追いつつの感想
舞台にはアルミホイルのカタマリ、舞台奥とカミテ横に配置された大きな鏡、天井からは白い布?が吊り下げられている。第一印象として情報が多い印象を受けた。もちろん情報が多いというのは、決して悪い意味で使っているわけではない。ただ、1時間の公演の中で情報が多いと、演者への集中が散漫になる恐れもある。そんなことが頭をよぎった。
ほぼ定刻に公演はスタート。混雑していた客席に緊張感が流れる。静かな期待感と緊張感が充満する空間。無音に近い状況でありながら、観客の気持ちの高まりが伝わってくる。しかし、私はといえば、メモをとりたいので最後列。狭い空間の中で落ち着かない状態。気持ちを整理できないままの開演となってしまった。
暗転からコンコンと木材か鈍器のような何かを叩くような小さな音が流れはじめ、伊藤さんがカミテ手前から舞台へゆっくりと入ってくる。白いカッパらしきものを着た白い物体。頭まですっぽり被っている。暗がりで見ている場所が後方のため、前向きなのか後ろ向きなのかが判別できない。途中、指の位置で客席を背を向けていることを確認。
このカミテ前での動きは8分ほど続いた。伊藤壮太郎という本人の存在すらも意識的に消し去ったような姿は、自分が何者であったかを見失ってしまった主人公の現実を象徴的に表しているように感じられた。きっと伊藤さんも自分自身の存在をできるだけ消した形で公演を見てもらいたかったのではないだろうか。
自分の存在を排除した形で時間をたっぷりとることで、観客の集中力が物語へとより深まっていく。
そして照明がやや明るくなり中央へ移動。しかし、すぐに客席に背を向ける、不思議な空間に迷い込んだ主人公は何かを探しているようだ。舞台奥の鏡に映し出される困惑した表情。鏡は効果的に使われていた。客席に背を向けた状態でも観客は表情をうかがい知ることができるし、自分が置かれている状況を演者本人が思い知らされるという二重の役割を果たしていた。
フッと電車のアナウンス音が流れる。日常的な音により揺れ動く心の中で、主人公に現実の記憶が蘇っていく。自分自身の存在にやっと気づいたようにカッパを脱ぎだす。その姿からは「自分にまとわりついた何かを取り払って現実に戻ろうとする行為」と見ることもできるが、「自身の本来の姿へ戻っていくような意志が芽生えはじめているような気配」も感じられた。物語的には、やはり「本質への脱皮」と考えた方がいいだろうか。
上半身は簡単に脱ぐことはできたのだが、思うように下半身を脱ぐことができない。もがき、足をバタつかせる。脱ぎ捨てたくても、切り離せたくても、どうしてもまとわりついてくる何か。得体のしれない感覚と決別するような意志が伝わってくる。そして、心の葛藤に呼応するようにアナウンス音と不穏な音が交差しつつ大きくなっていく。
せめぎ合いの中でやっとカッパを脱ぎ、スーーッと立ち上がる主人公。白いシャツ、黒のパンツとジャケットの上下姿。脱いだカッパを投げ捨て、鏡に目を向ける。
まとわりついたものをやっと捨て去ることで心に平穏が戻ってきたのだろうか……いや、そうではないようだ。いままで流れていた不穏な音が、さらに轟音MAXで鳴り響きはじめる。ここまでで20分ほどが経過。
今回はここまで。続きは、また!(2025/01/29)
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