『ハート・トゥ・アート』渡辺(@heart__to__art)です。2018年11月2〜4日、座・高円寺にて劇団態変(たいへん)の公演『ニライカナイ-命の分水嶺』が行われます。私は2日の14時公演に行きます。すでにネットでは売り止めになっておりますが、当日券が13時から発売になるそうです。会場に問い合わせしたので間違いありません。
<追記アリ>初日公演に行ってきました。思い浮かんだことを書き残しています。
目次
2日、3日には公演後にゲストを迎えてアフタートークあり
劇団態変は、主宰・金滿里さんにより創設され、身体障害者にしか演じられない身体表現を追究するパフォーマンスグループです。
劇団とは名乗っていますが、独自のパフォーマンススタイルを貫いています。以前よりはエグくなくなったという話も耳にはしています。
『ニライカナイ-命の分水嶺』公演
会期:2018年11月2日(金)〜4日(日)
会場:座・高円寺1
住所:東京都杉並区高円寺北2-1-2
時間:14:00 / 19:00(2、3日)・14:00(4日)
料金:一般4,000円、学生3,000円
ご予約・お問い合せ:http://za-koenji.jp/ticket/
アクセス:JR「高円寺駅」北口から徒歩約5分
関連サイト:
http://taihen.o.oo7.jp/upcoming.html
<ゲストを迎えてアフタートーク>
2日、3日には公演終演後、金滿里さんがゲストを迎えてのアフタートークがあります。
2日 14:00 高橋源一郎(小説家)/2日 19:00 佐藤信(劇作家、演出家)
3日 14:00 堤拓哉(『アラザル』同人)/3日 19:00 九龍ジョー(ライター、編集者)
ニライカナイって? どういう意味なのか?
ニライカナイは沖縄や奄美で信じられている理想郷のひとつ。神の世界を意味しています。
生者の魂はニライカナイからより来て、死者の魂はニライカナイに去るともいわれています。
神秘的な言葉です。
神秘的なタイトルです。
実際に繰り広げられる内容は……楽しみです。
では!
↓公演初日に行ってきました。簡単に頭に浮かんだことを書き残しておきます。
<追記2018/11/02>『ニライカナイ-命の分水嶺』公演から感じたこと
劇団態変『ニライカナイ-命の分水嶺』公演の初日に行ってきました。
会場は、座・高円寺です。久しぶりに敷地内に入ります。
一年ぶりです。
前回は『Koenji Conran Exhibition 2017』展で来ました。もう一年経ったんですね。
どっかで何度か書いていますが、座・高円寺や杉並区に対して私は深い因縁があります。そんなことを胸に刻んで忘れないでいるのは、もはや私だけですね。しかし、『ニライカナイ-命の分水嶺』を観て確信しました。忘れていいことと忘れていけないことがあるんだと……。
これ以上書くと脱線するので、『ニライカナイ-命の分水嶺』に話を戻します。
力強い文字です。しかし、素朴な優しさも漂っています。
パンフを見ると、東學(あずま がく)さんの字でした。東學さんといえば歌舞伎町の公園に描かれた龍の絵が印象的です。渋谷の個展で偶然お会いしたのは何年前だったか……。アートの東西対決をやろうと思っていながら実現できていませんが、やるときには声をかけたいと思った一人です。
おっと、また話が脱線してしまいそうです。
・ ・ ・
公演は1時間半弱。
劇団「態変」を主宰する金滿里さんを筆頭に、登場するパフォーマーは9名(女性5名、男性4名)。
そこに3人の生演奏、さらに出演者を介助(サポート)する10名程度の黒子たちが加わり、「態変」の世界が創られていました。
公演後には高橋源一郎さんと金さんによる30分程度のアフタートークがあり、さらに帰り際にはロビーに揃っていた出演者の方々と話をすることができたので、たっぷりと「態変」の世界を味わうことができました。
出演者それぞれの「破格な身体表現」は、生々しく、切なく、コミカルで……
公演後、金さんと高橋源一郎さんのトークでは「源一郎さんが態変の稽古場に初めて行ったときに、逃げ腰になってしまった」エピソードが披露されていました。
源一郎さんと同じように来場者の多くは、目の前で繰り広げられた世界に驚かされたようです。
四肢全欠損の向井望さんの登場などは非常に衝撃的です。
個人的には、望さんの登場場面はあまりに美しくて絶句してしまいました。帰り際に望さんに「カッコイイ男性に見えたけど、女性だったんですね!」なんて失礼なことを言ってしまいましたが、ホントにメッチャ凛々しくて美しかったです。
向井望さんをはじめ、みなさんの動きは生々しく、切なく、コミカルで、「ああ、人間って、こういう動きもできてしまうのかぁ……」などと感じさせられました。とくに金さんさんからは鬼気迫るオーラが全身から発散されていました。
あ、あとこれは不謹慎な表現かもしれませんが、永井豪の漫画を思い出してしまいました。やっぱ、永井豪はスゴイです。
健常者から見れば不自由な身体なわけですが、それ自体が健常者の狭い発想です。彼らは健常者が思うような狭い意識を飛び越え、自分らしく自分の身体を使い、表現していました。
個性的なんて表現では収まりきらない「破格さ」がありました。
以前、劇団「態変」は「人間として生まれた限りは、少なくとも1回は態変を体感したほうがいい」という宣伝文句でアピールしたこともあったそうです。
障害者によるありのままの身体表現だけでも、非常にインパクトありますし、大きな衝撃を受けます。当然、見る価値あります。
しかし、それだけで終わってしまっては、一回限りの見せ物小屋みたいになってしまいます。
今回、初めて劇団「態変」を観るお客さんが多かったようですが、もしかして劇団「態変」は一回観れば充分だと思っている人が多いのかも? なんて想いも頭をよぎりました。
どんな稽古? どんな演出? 小手先ではない「魂の叫び」
劇団「態変」のパフォーマンスは、障害者がお気楽にやってるというものではありません。出演者たちの眼差しは、明らかに未来の光をシッカリと見据えているように感じられました。
演出の金さんが、どのような形で指導しているのか気になりました。
・ ・ ・
基本的に過去の話はディレートして生きてきています。なので、詳しく書くつもりはありませんが、私自身、今井英臣さんという演出家の下でアングラ芝居をやっていた時期があります。
「今井英臣」を検索しても、ほとんど何も出てきません(すでに今井さんは亡くなっています。なんだかんだ言っても、所詮、ネットなんて笑っちゃうほど万能じゃありません)。
文学座出身で、基本的に人を排除していた三國連太郎さんの付け人をやっていて、完全に破格な人でした。
今井さんの稽古は技術的なこともさることながら、精神的な部分のウェートも大きかったでした。
とくに「気持ちを前に飛ばす、目の前のお客さんの遥か先に向けて飛ばすこと」を何度も教えられました。
劇団「態変」のパフォーマンスを観ているうちに、そんな過去の封印が自然に解かれてしまいました。
私は今井さんの劇団に3〜4年くらい在籍したでしょうか。
当時から他人に意見などまったく耳を貸さない性格でしたので、今井さんの教えに対して違和感を感じる部分もありましたが、「あれ? 芝居って何が大切なんだっけ?」なんてことを考えてしまいました。
当時の台本や稽古メモはどこかに封印しているはずなので、それを発掘してみる価値はあるかもしれません。
今井さんと二人で西武線の電車の中で話をして、「ああ、●●するんだったら、オレやめますよ」と今井さんの想いを後押しするつもりで芝居生活にピリオドを打ちましたが、結局、ここに戻ってきてしまうのか? なんて思ってみたり……。
とにかく劇団「態変」からは、小手先ではない「魂の叫び」的なモノを感じさせられました。
出演者をサポートする黒子たちの存在とは
彼らをサポートする黒子たちの存在も気になりました。
障害者はさまざまな形で存在しています。
目玉を動かすだけが精一杯の重度な身体障害者もいますし、まったく話が通じない知的障害者もいます。
その点では、劇団「態変」の出演者の方々は“組みやすい存在”でしょう。
とはいえ、生活の基本的な部分は、介助者がいて成立するはずです。
その辺をサポートしている黒子たちの存在……劇団「態変」を社会に置き換えた場合、健常者が黒子になるべきなんでしょうか。少なくとも家族だけではキツイでしょう。
社会の現状をしっかり把握もしていませんので、答えは見出せていませんが、「旧優生保護法」「断種法」なども含めて、過去を有耶無耶にしちゃいけないと思ったり。
感じたままの現状に向き合うのか、過去まで遡るのか……自分は何をするのがいいのか? なんてことを考え込んでしまいました。
その部分で、金さんの意識は明確でした。
「なんとか、生き戻したい!」 やまゆり園や施設の友人に向けた金滿里の想い
パフォーマンス、芝居、音楽、美術……そんなものは、それぞれが感じたように感じればいいと思います。
しかし、感じたいように感じるというスタンスは危険が伴います。
表現する側と同じ土俵に立てるほどの知識、経験、感性、思慮深さが私たちにあるかどうか疑問だからです。
とくに劇団「態変」のパフォーマンスは、表面的な部分だけに目を奪われていてはいけないと感じながら見ていました。
何を金さんは伝えたかったのか?
出演者は何を考えているのか?
アフタートークで金さんは「相模原やまゆり園19名、一緒の施設にいた“あぼたか”の怒り、悲しみ、絶望感を引っさげて、できたら(彼らの)魂を生き戻したい。(彼らの魂を)探して、探して、生き戻したい!」とおっしゃっていました。
相模原やまゆり園の利用者たちは、社会的に抹殺され、実際に価値のない存在だと決めつけた輩に惨殺され、最後は名前も公表されない形でトドメを刺されます。
三度殺されたという表現をする人もいます。
障害者が無の世界に消されてしまうような危機感の中、金さんたちは言葉を拒否して身体で叫びます。
「なんとか、生き戻したい!」と。。。。
高橋源一郎さんは「考えないことで成り立っている社会。考えている人が異常。余計なことを考えることで頭に異常があると思われてしまうのが、現在の社会」的なことをおっしゃっていました。
劇団「態変」のパフォーマンスは、「観て、感じて、考えて」欲しい
劇団「態変」のパフォーマンスは、好きなように感じるものであってほしくありません。
誰かが橋渡しになって伝えていくべきことが内包されていました。
思いつつままに書き殴ってしまいました。
とにかく劇団「態変」は一回きりで終わらすパフォーマンスじゃないです。
何度も観て、感じて、考えてほしいです。
今日(3日)の昼はチケット目一杯売れているようですが、今日の夜と明日はチケットあります。
時間のある方はぜひ!
また、観に行った場合は、パンフを熟読した方がいいです。
やまゆり園事件に対する金さんの絶望感と怒り、舞台に登場する足形の意味、シーンタイトルだけでも追いながら観て、感じて、考えて欲しいです。
・ ・ ・
私は、『ハート・トゥ・アート』として何ができるのでしょう。何もできないのでしょうか。。。
サブタイトル「命の分水嶺」は、絶妙の表現
補足ですが、サブタイトルとして付けられている「命の分水嶺」っていうのは、絶妙な表現に感じました。
分水嶺とは、水系の境界線(山稜)のことです。
とくに山岳地帯はわかりやすいです。山稜が水系の境界になります。そこで「分水嶺」と付けられました。ちなみに山でない場合は、「分水界」とか「分水線」なんて表現されます。
自然界に境界線は明確に存在しています。無数に存在しています。
人間界にも同様に境界線は存在していますが、そのラインは独善的な側の人間目線で見た場合に浮かび上がります。
所詮はそんなものです。
宇宙的視野で見た場合、その境界線は雲散霧消してしまいます。
そんなものです。
こっちも、あっちも、そんな境界線自体が無意味なこと。
それこそが「ニライカナイ」なんだと感じました。
では!
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今回の記事は以上となります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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