7月22日(月)、ストライプハウスギャラリーでの深谷正子さんのダンスソロ公演『庭で穴を掘る』。立ち会いの記録「見たこと、感じたこと、考えたこと」。
これは、公演中に私の頭の中で浮かんだこと、振り返りからの再確認、公演前の状況なども含めた経過を書き殴ったもの。
前回もそうだったが、一気に書き上げる時間も体力も気力もない。なので、追記&修正しながらの断続的な内容となる。写真もない。公演の画像が気になる方は、facebookで「深谷正子 庭で穴を掘る」あたりで検索してもらうと出てくるはず。前回に続き、わかりにくい表現も多い。しかし、書くことに意義あり! そこには異議は認めない! しかし、文章の批判は大歓迎!
深谷正子さんのダンスソロ公演を深堀りする理由
まずは公演前にfacebookにアップした内容を載せておく。※少し長いので、すっ飛ばしてもらってかまいません。つぎの見出し部分からが今回の公演についての深堀りです。
なぜ書くのか?
私なりの想いは、こちら。
念のために転載しておきます。
明日明後日、深谷さんの「動体観察2Daysシリーズ」の7月バージョンが開催される。とくに明日7月22日夜に行われる深谷さんのソロが楽しみでならない。そして、もうひとつのワクワクもある。それは公演の様子を形にする(文章にする)こと。
先日に行われた6月の『月の下の因数分解』公演(出演:梅澤妃美・秦真紀子・三浦宏予/作・演出:深谷正子)は、非常にインパクトがあった。
公演を見て、感じたことをダラダラと書いたのがコレ。
https://www.facebook.com/watanabehiroshi/posts/pfbid02SgFmuD3PQJKLNEkAdjN1RBoKEgQNRvaPfmKG1iBsuqxJ3ToAEkSZszXZDebuannDl
なんでこんなことを書いたのか?
せっかく深く関わってきたアート世界の魅力を自分なりに伝えたい! そんな気持ちにさせられたから。
つか、見る側は、もっと伝える必要があるよ。
そもそも「やる側」と「見る側」は対等だし、作品を通じて対話する必要があるんだよね。
「見る側」は対話を文章という形にする。「やる側」に対するリスペクトを忘れずに、自分の心の中に湧き上がってきた何かを言語化するの作業を深めていく。一人でも多くの「見る側」が形にすることで、もっと文化は豊かになっていくと思うんだ。
とはいえ、ワクワクだけじゃなくて、不安もあるよね。やっぱ、形にするって大変な作業だから。
ま、「見る側」が受け身になるのではなく、少しだけ能動的になって大変さや面白さを味わうことで、何か新しい発見があるかもしれない。何か感じてくれる人が出てくるかもしれない。そしたら何か心躍るようなことが起きるような気がする。
簡単に言えば、「見る側は、もっと伝える必要がある」ということ。
そして、公演終了後にエッセンスとして投稿したのが、こちら。
念のために抜粋&転載しておきます。
さて、深谷さん公演で感じたこと。一言で表すと『半径2メートル(実際は直径1.5メートルほど。完全に勘違いミス→以下同)で完結した羽化する肉体』といったところ。公演時間は約55分。スタートから53分ほどは直径1.5メートルで繰り広げられた。派手な動きはほとんどなかった。しかし、静止状態ではありながらも、肉体の中の細胞たちの激しい動き(意志)が感じられる。もはや動作ではない。これが深谷さんの目指している「動体(有機体ともいえる)」か。
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6月23日に行われた『月の下の因数分解』公演(出演:梅澤妃美・秦真紀子・三浦宏予/作・演出:深谷正子 https://www.facebook.com/watanabehiroshi/posts/pfbid02SgFmuD3PQJKLNEkAdjN1RBoKEgQNRvaPfmKG1iBsuqxJ3ToAEkSZszXZDebuannDl )のアンサー的な要素もあった。雨合羽を幾重にも纏って登場した深谷さん。6枚、いや7枚だったか……完全に脱ぎきるまでに25分ほどかけていた。その動きは「蛇の脱皮」にも見えたが、途中からは違う感覚になった。そして、終了後に感じたのは「蝉の羽化」。公演の内容はあらためて深堀りするが、ストイックさと集中力、そして観客を引きつける力に感服させられた。
観客を引きつける吸引力の凄さ。いや、吸心力とも言えるだろうか。言葉で説明できない力を感じた。その力の源泉はどこにあるのか? じっくり考えてみようと思う。
ということで、今回の公演について。
深谷正子さん「動体観察2Daysシリーズ・7月22日バージョン」の深堀り
前説が長くなりすぎた。
ここからが本番。「動体観察2Daysシリーズ・7月22日バージョン」深谷正子ダンスソロ『庭で穴を掘る』公演。
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会場はストライプハウスギャラリー・スペースD。2024年12月まで続く「動体観察2Daysシリーズ」は、ずっとこの場所で行われる。
6月の『月の下の因数分解』公演とは客席と舞台スペースの位置が異なっていた。空間を囲むように立てられた照明は6灯。前回のようなギミック的な小道具は皆無。無機質な空間だけが存在している。室内照明も消されていなかったせいか、前回のような重苦しい雰囲気はない。前回は「堅牢で存在感があるブラックボックス」と書いたが、拍子抜けするような日常感。
開演時間となり、簡単な前説。そして、照明が落とされる。
一気に暗闇へ落とされたところで、フッと弱々しいスポットがつけられる。薄っすらと浮かび上がる深谷さんの姿。そして、すぐに暗転。ごくごく普通の日常的な意識が瞬時にかき消されてしまった。
再び照明がつけられる。しかし、弱々しい照明は変わらない。深谷さんは何かを着込んでいるようだ。とても体積の大きな塊のようにも見える。他の人にはどう見えたのかはわからないが、その塊が雨合羽だと認識するまでに1〜2分ほどかかかってしまった。
冒頭にも書いてあるが、facebookで「深谷正子 庭で穴を掘る」あたりで検索してもらうと公演の写真がたくさん出てくる。どの写真も雨合羽の緑が鮮やかなで美しいものに仕上がっている。深谷さんの表情も思ったとおり。まるで生きた彫刻のような雰囲気でもある。しかし、体感的にはもっと緑は薄かった。最近のミラーレスカメラはISO感度が高く、ノイズも少ないので、素晴らしい仕上がりになるが、良くも悪くも “ 生の臨場感 ” が別物になってしまう感覚もある。
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この時点で私の頭に中には、2つのことが浮かんだ。
ひとつは「これ、もしかして今回はこのまま暗闇系モードでいくのかも? 深谷さんは深い闇と対峙するつもりなのか? それじゃメモが満足にとれなくなるじゃん! しかもオレは目が良くないので、深谷さんの表情が満足に見れないじゃん!」というもの。正直、開始時点で私は慌ててしまった。
そして、もうひとつは「ああ、なるほど。前回の『月の下の因数分解』公演のアンサー的な意味合いもありそうだな。どうやって脱いでいくのか見ものだな」というもの。さらに雨合羽が白ではなく、色があるものを選んだことにも気になった。実際の雨合羽は鮮やかな緑だったが、照明の光により変化する。それは闇の中で胎動する葉緑体のようにも感じられた。しかしこの文章を書きながら思い起こすと、葉緑体という表現は的確ではない。むしろミトコンドリアといった方が相応しいだろう。その理由は……高校生物の授業ではないし、ミトコンドリアに話を持っていくと脱線するので割愛する。気になる方は「葉緑体とミトコンドリアの違い」を検索してもらうと、私の言っているニュアンスがわかるはず。
そんなことを思いながら注視する。一向に動く気配が感じられない。3分、4分、5分、6分……照明もアンダー気味が続く。
やっと動きが出てきたのは8分すぎあたり。動きといっても、微動。見慣れない表現を使うのは好きではないが、「蠕動(ぜんどう→消化管のうごめき)」というべきか。照明も徐々に明るくなってきてるが、それでもアンダー気味であるのは変わらない。深谷さんの表情が見えないのが残念すぎると思ったのだが、「いや、ならば、見ることではなく、深谷さんの気配を感じることにシフトしよう」と自分の意識も立て直す。
最初に深谷さんのパフォーマンスを拝見したときは、ダイナミックな「肉の塊」というイメージだった。そして、今回は、ここまでの時点で「細胞内部(葉緑体・ミトコンドリア)」「内臓的な塊」のような印象を受けた。だから、敢えて「蠕動(ぜんどう)」という言葉を使った。もしかすると「内臓的な塊」に見えたのは、雨合羽を何枚も着ている異形な姿の効果も大きかったのかもしれないが……。
この時点で私は「身体の表面の動き」ではなく、「皮膚の下で起こっている見えない動き」を感じようとしていた。
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それにしても開始から8分が過ぎたというのに、深谷さんは雨合羽を脱ごうとしない。
話はガラリと変わるようだが、2024年7月22日は全国的に猛暑に襲われた。東京都心はシーズン一番の暑さで36.6℃を記録。全国では2024年最多となる281地点で最高気温35℃以上の猛暑日となった。甲府市や佐野市では40℃に迫った場所もあったそうだ。
私は「まさか、いや、絶対にありえないけど、この暑さの中で着たままってことはないよね?」。演出上の理由なのか、室内は空調も切られていた。座って見ているだけでもジワリと蒸し暑さが増し始めていた。そんなことを思い始めた10分過ぎ、ようやく雨合羽を脱ぎだす気配へ移行する。
薄暗い空間でゆっくり、とてもゆっくり身体をうごめかしていく。大きな動作といえば、両手を広げる程度。ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと雨合羽を脱いでいく。いや、脱いでいくという表現は的確ではない。雨合羽と共に踊っているようでもあり、皮膚を剥がす行為にも見える。登場から一枚目の雨合羽が脱ぎ捨てられるまでに要した時間は、12分ほど。
ここで音楽がカットイン。荘厳なバロック調のオペラ。終演後に深谷さん自身から話をうかがったが、「いままで使っていた自然音などではなく、今回はアリア的な音を入れてくれるように頼んだ」そうだ。この選曲については賛否あるかもしれない。自然音のほうが “ らしい ” と感じる人もいるだろうし、反対にドラマチックな選曲に高揚させられた人もいただろう。
そして、音楽が止む。音楽によって張り詰めた緊張感が少し和らいだところで、一気に動いてくるかと思われた。が、深谷さんのスピード感は、さほど変わらない。ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと雨合羽との関係を続けていく。そして二枚目が脱ぎ落とされた。ここまでで14分ほどが過ぎていた。
今度こそ残りの雨合羽を一気に脱いでいくかと思いきや、脱がない。脱ごうとする動作の気配は感じられない。しかし、脱ごうという身体の意志は伝わってくる。目の悪さのためにハッキリと表情を掴み取ることはできなかったが、あきらかに全身から「強い意志」のようなものが発せられている。そして、腰を曲げ、両手を広げ、身体をうごめかし続けていく。その姿は、まるで蛇の脱皮のようにも感じられた。
そもそも脱皮というのは、そもそも静止状態が長く続き、しかも無防備状態におかれてしまう命がけの行為。深谷さん自身は脱皮を意識してパフォーマンスしていたわけではないだろう。しかし、私は何やら「命がけの意志」のようなものを感じ始めていた。
そして、このタイミングで登場時点から直径1.5メートルの範囲から出ていないことにも気づかされる。
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三枚目を脱ぎ落としたのは、17分すぎ。
雨合羽と深谷さんの身体の奇妙な関係は続く。他の方の目にはどのように映ったのだろうか。シンプルに脱衣という行為と感じる人もいただろうが、私には脱ぐ行為(動作)には見えなかった。
そもそも動作とは意志を持って関節と筋肉を連動させる行為だが、手や指先の関節や筋肉を使った行為はほとんど見られなかった印象だ(私の思い込みだった可能性もあるが)。
そして18分あたりで四枚目が離れ落ちる。そして深谷さんの動きが止まる。徐々に身体を前後に揺らし続けながら五枚目の脱皮が完了したのが21分頃。
このタイミングで私には深谷さんの雰囲気がガラリと変わった印象を受けた。目の悪さから表情ではなく、発せられる空気感を感じようとしながら見ていたのでが、明らかに伝わってくるものが変わった。
この印象の変化はなんだったんだろう。文章を書きながら一人であれこれと考えてみる。
そこで、気がついたことが、ひとつ。
「即興の醍醐味」とは、自然の摂理の具現化?
皆さんは脱皮の際の「皮膚」と「殻」の境界線がどこにあるのかを考えたことはあるだろうか?
「抜け殻」という言葉があるが、完全に脱ぎきった段階で「皮膚」は「殻」となるのかもしれない。しかし、それは、あくまでも人間目線の話。もしかすると脱皮する当事者は、脱いでいる途中で「皮膚」から「皮膚でなくなる(殻)」という意識変化が起きるのではないだろうか。
印象の変化は「皮膚」と「殻」の違いだったのではないか。しかし、深谷さんが明確に「皮膚」と「殻」を意識して芝居をしているわけではないはずだ。もしかすると「即興の醍醐味」とは、自然の摂理の無意識の具現化なのかもしれない。
そんな理由から、五枚目までの雨合羽は「皮膚」、明らかに発せられるものが変わったように感じられた六枚目以降の雨合羽は「殻」といった方がいいのかもしれない。
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深谷さんの雰囲気が変わったように感じた五枚目が剥がれた後の動きは、やはり、それまでの動きとは異なっていた。急に身体をくねらせる。そして、止まる。ここで強く息を吐く行為を2度、3度と繰り返した。これには驚かされた。
意図的に息(生命力)を演出しようとしたのだろうか? それとも……。
もしかすると深谷さんは息を限界まで止めていたのではないだろうか。「息を限界まで止める」という行為は、役者時代に私がやっていたことがある。なので、非常に腑に落ちる行為でもあった。ここで腑に落ちた理由を書くと長くなるので、息を止める行為(自分を拘束する行為)については後述する。
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その後、腕を振り六枚目が身から離れるのが23分過ぎ。身を震わせて最後の七枚目が脱ぎ落とされた。ここまでで24分ほどが経過。
ここでも空気感が変化する。
表情は掴み取れなかったが、明らかにこれまでとは違う世界に来たような眼差しだったのではないだろうか。
雨合羽(抜け殻)が足元に散乱している。そして、とても大事なことだが、いまだ深谷さんは直径1.5メートルの範囲から出ていない。
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雨合羽を脱いだ深谷さんは黒のシミーズ姿(いや、スリップか)、そしてストールが何本か首に巻かれている。
雨合羽を脱いでから1〜2分ほど経過し、今度はストールに手がかけられた。そして一本目のストールを外したのが26分過ぎ。
この部分で印象的だったのが、手や指の動き。とくに指をワラワラとしきりに動かす動作は明らかにここまでの動きとは異なるものだった。
そして足元の雨合羽に視線を向ける。その流れから二本目のストールをとる。さらに三本目も簡単にとるかと思いきや、ストールを顔に巻き始めた。
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ストールを顔に巻いた状態での動きは2分ほど続いただろうか。ほんの少し前までは自分の身体でもあった最後の抜け殻を愛おしんでいるような、はたまた感謝の気持ちだろうか、そこには愛情らしきものが感じられた。
……そして、30分が過ぎ、雨合羽もストールも身から剥がされた状態となる。静かに脱いだ雨合羽に身を伏せる深谷さん。静かな安堵の状況を表現をするかと思いきや、強く息を吐き出す。激しい呼吸で身を震わせる。
この強い呼吸は意図的だったのだろうか?
深谷さんは、きっと、、、いや、あくまでも私の勝手な勘ぐりにすぎないが、意識的に呼吸を止めていたのではないだろうか。
なぜそう思ったのか? それは私が舞台役者をやっていたときに限界まで呼吸を止めて自分の気持ちを高めることをやっていたから。限界まで息を止めたり、息を吐き出し続けたりする。すると、当然苦しくなる。その苦しみに抗う行為が生命力を表現することにつながるのではないか? そんなことを思ってやっていたことがある。そういえば本番中にやりすぎて軽く意識が飛んで台詞が出なかった失敗もあった(苦笑)。
ここまでで30分。登場から直径1.5メートルの範囲で行われたシンプルな行為だったが、グイグイと引き込まれてしまった。まさに深谷さんの求心力、いや、吸心力か。公演後に「(観客の)視線を感じた」とおっしゃっていたが、観客側も同様に深谷さんをたっぷり堪能した時間でもあった。
ここまでの時点で深谷さんは何を意図していたのだろうか。。。
本人に伺ったとしても「何も考えてないのよ」と一笑に付すだろうが、私には外向きではなく、内向きのエネルギーが感じられた。内向きのエネルギーと言いながら矛盾するような書き方になってしまうが、深谷さんは自身の世界を広げながら観客、そして空間を自身の中に取り込んでいったように感じられた。
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そして、雨合羽に身を伏せていた深谷さんが動き出す。両足を広げ、腰を上げる。そして、ゆっくりと立ち上がっていく。ここで唐突に鐘の音が大きく鳴り響く。そしてバロック系の音楽へと続く。ここでのカットインは絶妙のタイミングだった。
ここから古い殻を脱ぎ捨てたことによる喜びの表現に変わっていくかと思いきや、深谷さんの表情は切なく、まるで苦悩しているように顔を歪ませている。5分ほど過ぎ、まるで全身を何かに縛られて拘束されたような状態となる。ゆらゆらと身体を揺らし始める。苦悩と感じられた表情は、さらに多様な意識が混在した複雑なものへと変化していく。
この間、ドラマチックな音楽は流れ続けている。見る側にとっては音に反応した表情ともとれるが、もしかすると表情に反応して音楽を流し続けていたのかもしれない。
37分ほどが過ぎ。音楽が静かに消えていく。そして、次第に照明も音楽に呼応して暗く沈んでいく。音響と照明のコンビネーションは見事。
ここからが深谷さんの真骨頂。迸る激しさに釘付けになる。
暗闇に沈んでいくような状況の中で、深谷さんはスリップの裾をたくし上げ、自分の手を身体(太腿あたり)に激しく打ちつける。強打されることで反応する身体。一撃により身体の中で何かが弾け、弾けた身体に反応するように手で痛打する。力強い。激しい。まるで自分を叱咤激励しているようでもあり、さらなる覚醒のために追い込んでいるようにも見える。
2分ほど過ぎ、次第に激しい一撃に強弱が出てくる。そしてリズミカルへと変化し、叩く場所も太腿から胸へと移っていく。
この行為は数分間続く。
45分ほどで動きが急に止まる。
静止状態は2分ほど。
明らかに空気の色が変わった(ように感じられた)時間。この感覚はなんだったのだろう。もちろん深谷さんの動きの変化が引き金になっているのは間違いないのだが……。
見ている自分の気持ちが変わったのか、はたまた観客の気持ちが一体となった空気感なのか、他の人はどう感じていたのだろうか……。
心の動き(意志)を動作に変え、動作により身体の細胞を活性化させ、活性化した細胞によって肉体が精神へと昇華していくような場面からの静止状態。。。わかりにくい表現だが、心と細胞が一体化したような印象を受けた。これが、もしかすると深谷さんが追求している “ 有機的 ” ということなのかもしれない。
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2分ほど過ぎ、深谷さんの表情がスーッと変わっていく。
ここで鐘の音がカットイン。
大きな鐘の音が一回、鳴り響く。
そして、また鐘の音。これも一回。
鐘の音に反応し、徐々に姿勢を正していく深谷さん。表情は安堵感というか、清々しさというか、囚われの身からの解放されたような印象。
再び、鐘の音。
清々しさから、毅然とした、凛とした堂々な雰囲気が醸し出されていく。
ここからの鐘の音と深谷さんの表情が対となって加速していく。
鐘の音、そして変化する表情
変化する表情、そして鐘の音
音と表情が連動して広がっていく。空間に波動となって満たされていく。
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徐々に照明が落ちていく。50分が過ぎあたり。薄暗くなっていことで視覚的な静寂が深まっていく中で、また鐘の音が響く。一回、そして、また一回。さらに一回。
深谷さんの残影を残した闇の中で鐘の音だけが際立っていく。
この時点で52分ほどが経過していた。60分には少し届かなかったが、ここで終わりだろう……。そう思ったところで、一度落ちかかった照明に光が蘇る。
徐々に明るくなっていく空間に鐘の音が鳴り響く。一回、そして、また一回。
「うそっ? ここで終わりじゃないの?」
私の中ではそう感じた。深谷さんはどうだったのだろう。私には深谷さんも少し戸惑っているように現場では感じた。しかし、いま振り返ると、そう感じたのは、自分の思い込みのせいだったようにも思われる。
「見る者の感情」と「表現者の感情」が完全に一致するなんてことは、ありえない。それは「見る者の感情」の傲慢かつ勝手な思い込みだろう。
あらためて振り返ると、自分の驚き(違和感)を主観的にとらえてしまうことは、自分の引き出しを狭くしてしまうだろう。時間を経てから考え直すと、客観的な視点も生まれてくる。その客観的が思考の幅を広げてくれる。
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光を増した照明の中で深谷さんは正面向き、やや目線は下向き。ゆっくりと前へ動く。「進む」というよりも、「動く」といった感じ。ゆっくり、ゆっくりと。
また鐘の音。
ここまででスタートから53分ほど。
そして、深谷さんは照明の光が当たらない場所へと消え去っていく。
照明は残された雨合羽に当てられ、徐々に照明はフェードアウト。最後まで鐘の音が響く。
ここで終了。55分程度の公演。
終わってみれば、最後まで直径1.5メートルの範囲で行われた。
長時間ほとんど動かずに続けられるパフォーマンスはあるが、今回の場合は「動かないことが前提ではなかった」と感じさせられた。いや、むしろ「動きたくて仕方ないのに、動けない」といった心情だったのではないだろうか。
拘束?された状況から生命力が発せられることが、むしろ非常に躍動的だったともいえる。
躍動的でありながら、大きな動きのない1時間。
暗闇の中で陽炎のような揺らめきが起きていた時間だったともいえそうだ。深谷さんの身体奥から発し続けられた生命力で揺らめきが発生し、観客をも包み込んだ時間、といえるのではないか。
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公演が終わり、深谷さんが口を開く。
「(皆さんが)一生懸命に見ているのが伝わってきた。ありがとうございます」
これが第一声。
公演を見ながら、私は深谷さんの行為(精神)に自分の意識を同期させて何かを探っていた。冒頭の言葉を聞き、深谷さんは観客という存在に対し、どのような意識を持っているのだろうか。とても気になった。
感謝の気持ちを発した後、深谷さんは『20代から “ 動体 ” という言葉を選んで活動を始めたこと』『人間の存在の面白さ』『 “ 動体 ” の封印や再開』など、自身の表現活動を語り、最後に決意表明ともいえる言葉で締めくくった。
「たどたどしい(表現)生活だったが、やるなら続けてやりたい。答えが出るかどうかはわからない。(もしかすると)踊っている場合じゃない時代が来るかもしれない。だけど細々とでもやっていきたい」
深谷さんはこれからも答え探しという活動を続けていく。
見る側も正解かどうかもわからない答えを探究する行為が必要だと強く感じさせられた。
前回の公演では「満ちる」というのがキーワードとして浮かび上がってきた( https://www.heart-to-art.net/BLOG/moving-body-observation2024-06-23 )。そして今回は、「拘束(不自由)からの躍動感」というポイントが浮上してきた。
深谷さんの存在を捉えることは容易ではないだろうが、探究することであぶり出したいくつかの「点」を自分なりにつなげていきたい。そこから何らかの答えが見出すことができればいいのだが……。
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ここまで書いて、やっと当日パンフに目を通す。
興味深かったのは、タイトルに関して。
今回のタイトルは『庭で穴を掘る』。
スマホで稽古通しの様子を撮影し、それを見て決定したそうだ。「今までの生きてきた様々な『澱み』を庭に穴を掘って埋めているような感覚になった」らしい。
私の場合は、蛇の脱皮&蝉の羽化のイメージを持ったが、他の人はどのように感じただろうか。
ちなみに私が感じたイメージの変化について簡単に書いておく。まず最初は「蛇の脱皮」に思えた。しかし、蛇は蛇のままである。それはイメージと違った。つぎに感じたのは、カブトムシ。カブトムシは幼虫から蛹へと変化する段階でツノが伸びる。前半と後半の2段階表現から感じたわけだが、基本は土の中で見えない状態となるのでイメージが異なる。そして行き着いたのが蝉の羽化。幼虫から蛹にならずに成虫になる蝉は、天敵を避けるために薄暗い状態の中で羽化する。さらに調べてみると羽化に失敗する確率は6割なんだとか。命がけともいえる蝉の羽化。まさに今回の表現にピッタリだったのではないだろうか。
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パンフレットの最後には、深谷さん自身が「飢え」や「乾き」を感じているくだりもあった。今回は名匠ヴィム・ヴェンダース監督が描いた『アンゼルム “ 傷ついた世界 ” の芸術家』という映画作品の破片を表現したいという想いが綴られていた。
2024年6月21日に公開されたばかりの作品である。
ヴィム・ヴェンダース監督は1945年生まれ。
深谷さんは1947年生まれ。
70代半ばを過ぎても尚、危機感と挑戦心が旺盛な先輩の姿に感じ入っている場合じゃない。
私ができることは何があるだろうか。。。
例えば、文章で伝えること。そして、他人目線で企画すること。。。か。
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前回に続いてダラダラと思いつくままに書いてきた。今回も一気書きではなく、時間を空けて、さらに書いたものを読み直さないままに追記するスタイル。用字用語の統一も危なっかしい。しかし、前回からのつながりを意識しつつ書くことで、即興や表現に対する意識が整理され、なんらかの共通点がより浮かび上がってきた気がする。
この流れから10月14日(月・祝)には、現代美術家・坂田純氏を迎え、西荻窪「井荻会館」で美術と即興のイベントを企画している。詳細はあらためて!
以上!
(注)記事内で記載した公演の時間経過と内容は目安です。おおよその流れです。メモが間違っている部分、読み間違いしている部分があるかもしれません。どうぞご理解ください。
深谷正子ダンスソロ『庭で穴を掘る』
動体観察2Daysシリーズ・7月22日バージョン
日時:2024年7月22日(月)・19:00開演
会場::六本木ストライプハウスギャラリー・スペースD
出演:深谷正子
照明:玉内公一
音響:サエグサユキオ
舞台監督:津田犬太郎